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日馬富士の暴行事件、白鵬の「物言い」事件から考える

角界が揺れている。場所中に突如明らかになった日馬富士の暴行事件。嘉風との一戦で起こった白鵬の「物言い」。ワイドショーやスポーツ紙を騒がせ、センセーショナルな見出しを躍らせるこの2つの事件は、現代社会における「相撲」が孕む問題を端的に示しているように思えてならない。

当記事は「競技」であり「文化」であるスポーツが持つ複雑な構造を、私の頭の中で整理するために、記すものである。

 

最初の報道は11月14日だった。

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その後、様々な関係者の話が飛び交い、情報が錯綜する。何が本当で何が嘘か、今もまるで分らない状況だが、おそらく「酒に酔った日馬富士が、貴ノ岩の態度が気に食わず、殴った」という部分は本当なのだろう。貴ノ岩がどのような態度を取ったとか、どのくらい殴ったとかはこれから明らかになってくる部分だ。

これに対し、部外者の反応は様々だ。「どんな理由があれ、暴力は許されるものではない。」「礼節を重んじる業界なら『躾』はよくある話。ただやりすぎた。」…等々。

10年前に時津風部屋での死亡事件が起こってから角界はその体制改善を求められ、協会は反省をもとに改善へと向かっているはずだった。しかし、それなのに再び暴行事件が起こってしまった。角界は変わっていない。そう糾弾されているわけだ。

 

一方で、角界は変わらぬことを求められる。「品格」の問題である。

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嘉風との一戦で立ち合いが合わなかった白鵬が「待った」を主張。認められず嘉風の勝ち名乗りが行われたのちも土俵へ立ち尽くして抗議したという「事件」だった。

ここで言われるのは、物言いをつけられるのは審判と控え力士のみというルールを破ったことへの批判ではない。問題は「横綱の品格を傷つけた」ことにある、そうだ。

横綱審議委員会横綱推薦の内規で、「横綱に推薦する力士は品格、力量が抜群であること。」と定めている。そもそも横綱とは昇進のための基準があるわけではない。(慣例は存在するが、しばしば歪められる)それは相撲の文化的側面を守るためであり、相撲ファンもそれを求めている。相撲は神事であり国技である。様々な儀式、慣例とともに古来より受け継がれてきた伝統文化なのだ。そこに相撲という世界の難しさがある。

 

現代社会は西洋文化を取り入れ、合理性を重視するようになった。それが労働者の権利問題、女性の権利問題、様々な社会問題として挙げられ、そして問題提起されることによって社会がより良いものになっていく。それは間違いない。

ここでひとつ頭に浮かぶのが、寺院の労働基準法違反問題だ。

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簡単に言えば、寺院が僧侶に対して労働基準法に反する労働を強いていたという問題である。これが問題として現れるところが、日本社会の進化を示している。たとえそれが現世と隔絶され、仏を拝み修行に励む僧侶であったとしても、法に反することは許されないわけだ。

しかしその一方で、僧侶は「賃金が法に反している」と簡単に言えるものなのか。欲を排除し、俗世を捨てて仏の道へ進んだ人である。おそらく声を挙げた僧侶は寺院内では相当「言われた」だろう。

 

角界もある種の「宗教性」を持っており、それはファンが求めているものでもある。寺と相撲部屋はどこか似ているような気がする。寺院が「奉仕」と「労働」の狭間で揺れるのに対し、角界も「浮世離れ」でありながら一般社会に順応しなければならない。やはり角界の改革はある程度の「宗教性」や「浮世離れの感」を失くさなければ成し得ないものなのではないかと思う。けれども、その「宗教性」が相撲の魅力でもある。

このパラドックスに落としどころを見つけ、社会から認められながら文化としてスポーツとして相撲という競技が発展していくことを願っている。

 

なんともまとまらない話になってしまったが、個人的な見解を述べるなら、角界は「浮世離れ」の世界であり、そこに入っていく以上は一般社会と異なるその世界のルールの中で生きていかなければいけないと思う。もちろん暴力を是とするわけではないが、「浮世」の我々が声を大にして論ずることができる世界の話では無い気がしているのだ。